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霊柩車が誕生する前
現在の葬儀では、告別式が終了すると遺体は霊柩車にのせられて火葬場へと向かいます。
今こそ乗用車など珍しくもない時代となっていますが、自動車が普及する以前の葬儀では遺体はどのように運ばれていたのでしょうか。
霊柩車が日本に導入されたのは大正時代のなかば頃であり、東京、大阪、名古屋など比較的大きな都市で用いられはじめたようです。
大正年間といえば、路面電車や郊外電車は普及しはじめていましたが、自家用乗用車などは数えるほどしか走っていなかった時代です。
そんな時代に自動車で柩を運ぶというのは、大変モダンな発想だったのではないでしょうか。
そして近代的な利器の上に、柩を運ぶための輿を模した上屋をのせてしまったのが、現在でも多く見ることのできる宮型霊柩車なのです。
霊柩車が導入される前の葬儀では、自宅から埋葬地や火葬場まで、柩は駕篭や輿に乗せて運ばれました。
そして会葬者は葬列(野辺送りともいう)を組み、それに付き添いました。
葬列を組むという慣習は、おそらく古代から形態を変えながらも長い時代にわたって行われてきたものと推測できます。
しかしながら葬列という慣習は、霊柩車の普及によって、大正から昭和にかけての短い期間に都市部を中心にして一挙に駆逐されてしまいます。
これはさまざまな原因が考えられますが、一つには葬列がもはや都市生活の実情にそぐわなくなったということがあります。
墓地や火葬場の遠隔化によって徒歩で墓地や火葬場に行くための時間がかかりすぎること、また葬列が路面電車や自動車などの運行を大いに妨げたことも考えられます。
その意味では、時代の要請にそぐわなければ長く続いた慣習でも変わっていくということを、葬列の消滅と霊柩車の普及が示しています。
最近では宮型霊柩車に代って、寝台車タイプの洋型霊柩車の普及もめざましいものがあります。
このあたりからも人びとの意識の移り変わりを読み取ることができます。
現在の葬儀において祭壇の段数の多さでその豪華さや盛大さを競うような風潮がみられます。
2段よりも3段が、それよりも4段の飾りのほうが格式の高い葬儀のように思われているかもしれません。
確かに祭壇は葬儀式場の中心にあり、司祭者も参列者も祭壇に向かって拝礼しますから、その部分が立派に見えることは葬儀全体の雰囲気にもかかわる重要な部分と考えられているのでしょう。
しかしながら祭壇の登場は東京が最も早くそれでも昭和初期であり、現在のような祭壇が葬儀で一般化するようになったのは昭和30年代からのことだといわれています。
それまでは、葬儀式場には柩と、枕机におかれた位牌や香炉などごく簡素な祭具が花環や供物などとともに並べられました。それでも葬儀は立派に行われていたはずです。
人びとが葬儀の見映えを気にするようになってきたのは、不特定多数の人びとが葬儀に集まるようになってからのようです。
人びとの社会関係が、ごく近くの地域住民だけに限られていた時代には、無駄な見栄をはらなくとも、逆に見栄をはったとしても、その家の内情は知れていますから、社会的地位や経済力の優劣はおのずと明らかでした。
しかし人びとが都市に集中することで住民の流動性が激しくなり、また居住地域をこえて社会関係が拡大していくと、社会的地位を誇示するために社会的体面に多くの人たちが気を使うようになってきます。
葬儀にかかわらず、結婚式などでの過剰なまでの外面志向の原因の一部はこのへんにありそうです。
しかし外面を取りつくろうことに追われて、葬儀自体が空虚になってきていることへの反省が生まれてきています。葬儀にかかわる人びとにとって本当に必要なものは一体何なのでしょうか。
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